九州インド哲学

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■ インド哲学の伝統

Venkataraman

インドには、パンディット(伝統的スタイルの学者)と呼ばれるバラモン学者がいます。大学で教えたり、あるいは村の寺子屋でバラモンの子弟にサンスクリットを教えたりしています。漢学者や国学者のインド版と考えれば分かりやすいでしょう。

右の写真はJ. ヴェンカタラーマン教授。私の聖典解釈学の師匠です。マイラポールにあるマドラス・サンスクリット・カレッジの教授です。サンスクリット・カレッジでは、ヴェーダや占星術をはじめ、ヴェーダーンタ神学や論理学など、サンスクリット語で伝えられてきた多くの知識が専攻に分かれ教えられています。

教授は古典インド聖典解釈学の数少ないスペシャリストです。ヴェーダーンタ神学の一元論、ニヤーヤの論理学もお手の物。また、リグヴェーダの朗誦にも長け、そっち方面でもひっぱりだこでした。

見てお分かりのように、額に横線の入ったシヴァ教徒。カーンチーのシャンカラ僧院をよく訪問されていました。左肩から右脇下にかける聖紐も見えます。

教授がすらすら暗唱するリグヴェーダの賛歌、これは紀元前1000年頃のテクストです。現代まで伝承されていますから3000年の古さです。口承で正確に伝承されています。また多くの写本も残っています。

聖紐は再生族の印。バラモンの子弟がヴェーダ学習入るための通過儀礼「入門式」(ウパナヤナ)で、ガーヤトリー・マントラとともに授かります。四種姓(ヴァルナ)と四住期(アーシュラマ)を軸とする社会制度の理論は、紀元前600年頃から整備されていく法典類に既に記述があります。たとえば『マヌ法典』(前200〜後200頃)は後代への影響力の大きい法典です。

バラモンの場合、聖紐は綿製、上巻き(右捩り)、三重である。(『マヌ法典』2.44ab, 渡瀬訳参照)
教授の専門である聖典解釈学(ミーマーンサー)は、祭式文献ヴェーダの解釈学、「ヴェーダの文章の意味を考察する学問」です。根本経典であるミーマーンサー・スートラへの注釈(後6世紀前半)や復注釈(後7世紀前半)には、ヴェーダの解釈に関わる壮大な体系が展開されています。

ヴェーダーンタ神学は、ヴェーダの最新層ウパニシャッド文献(前500年〜)の解釈学。「それが汝だ」「我は梵なり」といったウパニシャッドの文句をもとに、神学的な思弁を展開しています。一元論を説くシャンカラは後8世紀頃の宗教家。その伝統は、東南西北に位置するシャンカラ派の四大僧院をはじめとして、現代にまで強い影響力を誇っています。

カーンチーのシャンカラ僧院(シュリー・カーンチー・カーマコーティ・ピータ)もそのひとつです。1850年頃に現在のカーマアクシ寺院に拠点を移し、第69世のシャンカラアーチャーリヤであるチャンドラシェーカレーンドラ・サラスワティー(1905-94在世)の時に勢力を拡大します。(ただし僧院のオフィシャルサイトでは紀元前482年に立てられたことになっています。)古くから続く四大僧院のひとつであるシュリンゲーリのシャーラダー・シャンカラ僧院とは拮抗関係にあり互いにその起源をめぐって激しく論争しています。

両寺院は南インドのスマールタ派と呼ばれるバラモンを信者の核として栄えています。またシャンカラ派は歴史的にシヴァ派と密接な関係にあります。同じくヴェーダーンタの伝統に立つラーマーヌジャ派がヴィシュヌ派と密接な関係にあるのと対照的です。

Venkataraman

と、ヴェンカタラーマン教授に体現される伝統を記述するだけで、3000年の歴史を紐解かねばなりません。リグヴェーダからヴェーダーンタ神学のシャンカラ、さらには、シヴァ派。

もう一人の師匠であるN.S. ラーマーヌジャ・タターチャーリヤ教授。ポンディシェリにあるフランスの極東学院の教授です。ヴィシュヌ信仰のラーマーヌジャ派シュリーヴァイシュナヴァの南方派テンガライのマークを額につけています。現代インドで最も高名なパンディットの一人です。

教授が得意とするのは後13世紀以降スタイルが確立していく新論理学、ラーマーヌジャ(伝1017-1137年)系統のヴェーダーンタ神学であるヴィシシュタ・アドヴァイタ、および、聖典解釈学の保守派プラバーカラ派の教義です。ヴィシュヌ派も、その歴史は複雑です。

こちらも、教授の体現する文化伝統を紐解けば、長い長い話になることでしょう。




Sirウィリアム・ジョーンズがサンスクリット語について講演をし、ヨーロッパにおける印欧語研究ブームに火をつけたのが1786年。 Sirアーサー・ベニスがベナレスにサンスクリット・カレッジを立てたのが1791年。欧米人のサンスクリット研究は約200年になります。

オックスフォードのマックスミュラーに習った高楠順次郎が東大で「印度哲学宗教史」を開講したのが1906年ですから、日本に欧米式のインド学Indologyが輸入されて約100年です。

漢字圏で考えれば、玄奘三蔵(後602?-664年)がインドに十年間も留学して、多くの仏典と論書を持ち帰っています。存在論を展開する勝論(ヴァイシェーシカ学派)の著作も漢訳されています。陳那(ディグナーガ)の『因明正理門論』のようなコテコテの論理学・認識論の漢訳もあります。さらに本邦にはサンスクリット学である悉曇学の伝統もあります。

日本人とインド哲学、そのチャンネルはひとつではなさそうです。

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